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子育て・あのね

複眼的な見方で人を見ること

2023年3月9日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

 

皆さんは、お子さんたちがどのような子になるようにイメージしていますか。米国の神学校で覚えた英語に holistic(wholistic) という言葉があります。キリスト教教育学で良く用いられていました。人を総合的、全人的に理解し、共に生きようということです。医療では「全人医療」などという言葉もあるようです。創世記1章26-27節によると、人は「神のかたち、神の似姿」に創造されたと言います。いろいろな解釈がありますが、「神のかたち」とは人間に本来備わった実体というより、語りかけに対して応答し、他者との関係に生きる「人格」について書かれているという解釈が現在では主流です。人はこの世(被造世界)における他者との関係において、自分自身との関係において(自己受容の課題です)、そして神との関係に生きるように造られています。これが総合的、全人的理解です。対他関連が旨くいかないと他者を欲望の対象として「もの化」し、また「もの化」される、いわゆる「疎外」が生じます。対自関係が旨く行かないと「自分が好きでない」「自己肯定」「自己受容」のしにくい人になります。対神関係では偶像礼拝者となり拝金主義から健康神話などこれは様々です。人は真の神を信じるように造られているので、何か他の神々に隷属してしまうのです。

創世記2章7節はこの人間理解よりも古いもので牧歌的です。人(アダム)は土(アダマ)から造られ、その鼻にいのちの息を吹き入れられて「生きた魂」となったとあります。男女(LGBTの方を含めて)は人として「アダム」であり、土から造られている。ここには身体と魂の分離はなく、一体であるという全人的人間観が見られます。

キリスト教徒ではないギリシヤ人には、人は肉体という牢獄に閉じ込められた魂であるという理解があり、一方で体育が重要視されはしましたが、他方、魂には永遠性が宿ると考えたようです。そして、魂(生の原動力)は知・情・意の3つの要素からなっていると考え、知育、情操教育、意志の訓練(躾)を目指したのです。しかし、このバランスは難しいです。夏目漱石は『草枕』の冒頭で、「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。」と言っています。

皆さんは、お子さんたちがどのような人になることを希望していますか。成績が良く、知的に優れた人ですか? あるいは情感豊かな人ですか? あるいは情欲の誘い(wish, desire)に抗って「意志」(will)を通せる人でしょうか。そのバランスを取るというのが全人的人間像ですが、それらにまたコミュニケーションの上手さ(「社会性」)など欲張った希望もあるでしょう。

ここでその子に合った教育について考えてみましょう。スイスの小学校の確か1年生の子どもです。教師の判断で「留年」が決まりました。私は、保護者の反応を伺っていました。「辛いかな?!」。するとその子のお母さんは、にこにこして「ありがとうございます。税金を使ってもう一年この子に合った教育をしてくれるとは!」と言われたのです。自分のメンツや社会通念ではなく、子どもの人格を大切にする姿勢です。その子の成長の時に合わせるのです。

私自身はかなりの悪ガキのいたずら小僧でした。知情意のバランスで言えば多少、知(悪知恵?)に長けていてバランスという考えは好きではありません。ロボットのような完全なバランス人間には面白みがありません。スイスには何と「イタズラして良い一日」という日があり、その日は子どもたちは爆竹を鳴らしたり、悪ふざけの限りです。ある子が鉄道駅の自販機だったか券売機でしたか、コインを入れる処にチューインガムを貼り付けていました。「コラ、これは少しやりすぎ!」と叱ったものです。大人(外国人の)と子ども(スイスの)の対話です。全人的とはバランスが取れていて良い、家庭的にも、社会的にも「扱い易い人」になるということではなく、人間は、身体的、精神的、知的、心理学的、社会的、経済的、その他、多様で、複眼的な視野で相互に向き合いながら、その人に合った仕方で生きられるように少し支援してあげることなのでしょう。

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