2022年12月の過去ログ
クリスマスの思い出
東福岡幼稚園理事
松見 俊
クリスマスおめでとうございます。クリスマスはイエス・キリストの誕生日です。神がイエス・キリストをこの世界にプレゼントしてくれたことをお祝いし、互いにプレゼント(贈り物)をする習慣がありますね。皆様はどのようなクリスマスをお迎えになるのでしょうか?
私の子どもたちが幼稚園児の頃は母の日や父の日(現在は片親の方がおられるのでこのような呼称は避けていますが)そして誕生日にはたどたどしいカードと共に「お手伝い券」や「肩もみ券」などを貰ったものですが、最近はそのようなことはありません。どのくらいの歳からそんな習慣がなくなってしまったのでしょう。子どもたちが成長すると保護者としてはちょっと寂しいです。
子育て関連で、スイスでのクリスマスの思い出を書き留めてみます。実は、イエス様のお誕生日のお祝いであるクリスマスと、贈り物をあげたり、貰ったりするサンタクロースの日は別のものです。ヨーロッパでは、12月6日にサンタ・ニコラウスの日があります。「サンタクロース」はセント・ニコラウスのオランダ語読みです。この日、玄関のドアの前に靴を置いておくと良い子の靴に贈り物を入れてくれる習慣です。むろん、セント・ニコラウスさん自身も紀元3世紀~4世紀にイエス様を主と信じて、貧しい人々に贈り物をプレゼントした人で、現在でも欧州のそこら中に聖ニコラウス教会が建てられています。(贈り物はさておき、欧米のクリスマスは、日本のお正月のように家族みんなが集まる日です。)
私の次男のことです。当時は、スイスのチューリッヒ郊外の神学校の家族寮に住んでいました。彼が幼稚園の年中さんくらいのことです。玄関前に靴を置いておくと、翌朝、お菓子のプレゼントが入っていて大喜び! ここからが彼らしい処です。「パパ、ダメモトで、今夜も靴を出して置こう!サンタさんが間違えてお菓子をまた入れてくれるかも知れない!」(長男はそんな欲張りを言いません。)子どもの夢を壊したくない私は急いで数分歩いて、「つた」の絡まる神学校本館の地下室に行き、チョコレートの販売機でチョコレートを幾つか買って息子の靴の中に入れました。すると次の朝、彼は大悦び。「パパ、サンタさん間違えてまたプレゼントくれた!」「そう良かったね!」。処がこの子ここで終わらない。「パパ、サンタさんまた間違えるかもしれないので、靴を出しとくよ!」と来ました。私は、「いい加減にして! 欲張り!」とちょっと大きな声を出しました。彼は、今は人の金を数える銀行員。高校生になった頃、「おかしいなア、あのチョコレート、神学校の地下で売っていたなあ?」と思ったそうです。あはは!
サンタさんを信じる子どもと保護者の「化かし合い?」。でも小学校に入ると訳知り顔の「おませ」な子が「サンタって、実は、親(保護者)なんだよ」という夢の無いことを言い出すのです。これも子どもたちの成長過程であり、「子育て」のひと苦労です。
ある時、教会員の女性から質問がありました。「先生、私の娘、小学校6年生にもなるのに、まだサンタクロースの実在を信じているんですが、大丈夫でしょうか?」私「もちろん、大丈夫!その内、信じなくなるよ!」これもまた、子育てのちょっとした寂しさと嬉しさでしょう。
お祈りすることを学ぶこと
2022年12月2日
東福岡幼稚園理事 松見 俊
キリスト教信仰に基礎づけられた幼稚園の保育の特徴は「祈ること」を共に学ぶ処にあると思います。私は東京都杉並区にあった「童話会」という幼稚園に通っていました。教会立の幼稚園ではありませんでしたが、園長夫妻がクリスチャンでした。ご夫妻が幼児教育に明確にプログラム化された「祈り」を導入されていたかどうかの記憶は定かではありません。でも、祈りの雰囲気は何とはなしに感じていました。食前の感謝の祈りが終わると園長先生のお連れ合いが微笑んで「では召し上がれ」と言われたことは記憶しています。
子どもたちが祈るようになることが素敵であると意識的に思ったのは、私が青年期にクリスチャンになり、教会学校(日曜学校)で小学生たちのお世話をするようになって以来であると思います。
幼児がお母さん、お父さんのために(あるいは片親のために)祈る人になる、その祈りを親が聞くことができることは親にとっては慰めであり、励みではないでしょうか。祈りは食物を与えてくれる神さまや農業、漁業、林業などに携わる人々(あるいはお巡りさんや消防士さん?)への感謝へと広がり、お友達のための執り成しの祈りも加えられていきます。
親はいつまでも、どこにでも物理的に子どもたちと共にいられるわけではありません。子どもたちが「お父さん」、「お母さん」と呼びかけたい時と場所に、「そこに」いてあげられることも必ずしも叶いません。そのような時に、子どもたちが「神さま」と祈ることができるとは何と幸いなことだろうと思うのです。保護者(親も)一安心ではないでしょうか。
あかちゃん時代、「いない、いないバ、ー」を喜ばなかった子どもたちは少ないと思います。大好きな人が一瞬目の前から「いなくなり」ちょっと心配、でも、すぐに、「バー」と出てきてくれる。目に見えないけれど、そこにいてくれるという経験の積み重ねが、自立への第一歩です。不在(absence)は存在しないこと(nonexistence)ではないのです。目には見えませんが、確かに存在する神様に祈ることができるとは素敵なことでしょう。保護者だってちょっと気を緩めることだってあるのですから。
ある時、幼児が「運動会の日にお天気が良いように!」と祈ったら、一人のませた少年が「天候は神が決めるんじゃない!そんなこと祈っても仕方ない!」と言いました。「テルテル坊主」をベランダに吊り下げるのがキリスト教的であるかどうかは分かりません。でも、私はあのませた少年にひとこと言いました。「もし雨が降ったとしたら『どうしてだろう?』と一緒に考える人になって欲しいよ。きっと、『お願い!雨を降らせてください!』」と祈った誰かがいたのかも知れないね!」と言ってあげたらどうだろう」と。祈りが聞かれなかったとしたら、それをどのように理解したら良いか、その説明責任は保護者にあるのかも知れません。いや、納得のゆく説明などはないのかも知れないし、する必要もないのかも知れません。保護者(親)は神様ではないのですから。幼児たちが祈る子になると、保護者さんも考える人になるかも知れません。
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