電話番号

子育て・あのね

2023年4月の過去ログ

親離れと子離れ:保護者の損な役割?

2023年4月22日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

新しい年度が始まり2週間以上が経ちました。新入園児たちは丁度2週間かな?お弁当も始まりました。今回は親離れと子離れについて考えてみましょう。

保護者から離れてお友達と一緒に生活することは幼児にとって未知の体験でしょう。私はスイスの神学校時代、キャンパスの育児室でアルバイトをしていたことがあります。小さな子どもたち相手は大変でした。庭園の管理、草取り、落ち葉掃き、朝5時からの雪かき等肉体労働のバイトの方が気楽でした。

かつて沖縄に海兵隊として勤務していたというロッツ夫妻にはカステンという男の子がいまいた。確かお姉さんが二人いたと記憶しています。カステンは保育のドアに近づくと泣き出します。私が彼を受け取るのですが、大泣きです! でも、困ったことに彼のママがなかなか保育所から去らないのです。ママの姿が見えなくなるとすぐに泣き止むのですが…。お母さんが子離れできていないのかも知れません。泣いたらママはしばらく居てくれることを学習してしまうので、私が目配せで「早く行って!」と合図したものです。

私の孫の一人(笠井佳子さんの処の二人の孫ではありません)は幼稚園に到着したらママが家に帰ってしまったので、怒っておしっこをやってしまったようです。私が電話で、「Oちゃん、今日はおしっこ攻撃をやったらしいね」と聞くと「うん」ということでした。お試し当園の時はママがずっと一緒に居てくれたので、これからも一緒に居てくれると信じて疑わなかったのです。裏切られた怒りでしょうか?「明日もおしっこ攻撃やるかい?」というと「うん」という返事でした。次の日はたぶん着替えのパンツを持たせたのでしょう!「今日もやったか?」と聞くと「うん」ということでした。子どもにはこどもの理屈があるものです。いや、単に排尿訓練の問題かな?たぶん、そんなことはないでしょう。数日間続いたおしっこ攻撃はすぐに辞めたようです。子どもたちは少しづつ親離れを体験し、また、親も子離れを体験して共に育っていくのでしょう。しかし、親離れ・子離れに慣れるのは個性、個人差がありますので、あまり親離れできないことに心配しないことです。年中さん、年長さんの保護者の方は幼児が親を後追いすること、親も子の後追いをしたことの1年前あるいは2年前の「ほろ苦い経験」を思い出されることでしょう。愛する幼児たちが少しづつ自立していくことはちょっと寂しい経験であり、損な役回りですね。反抗期や思春期になれば口もきいてくれなかったりするのですから。

子どもたちは二歩前進、一歩後退、三歩前進、一歩後退、また前進と進んで行きます。ヘブライ語(旧約)聖書には「エデンの園」(パラダイス)から追放され、この世界の「旅人」として生きる人間の姿が描かれています。かつて母と繋がっていた「子宮」に戻りたいと誰もが思うようです。しかし、極端な退行現象を防ぐために、主なる神は「エデンの東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(創世記3:24)と言われています。(ケルビムとは天使の名前です。)「エデンの東」というスタインベックの小説があり、若きジェームス・ディーンが出演した有名な映画があります。旅人として生きる葛藤(この物語の場合は、父との関係を巡る二人の息子の葛藤ですが)が描かれています。十分な愛着(親密さ)が満たされねば自立できないのですが、極端な「退行」も問題でしょう。人は二歩後退しても三歩進み、一歩後退しても二歩進むこと、時には、進むより後退する方が多いとしてもやはり前に向かって旅をするものなのでしょう。お子さんたちも保護者の方々もお疲れ様です!

命を育む木と善悪を知る知識の木

2023年4月10日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

新しく東福岡幼稚園に園児をお送り下さる保護者の皆様、お子様たちの御入園おめでとうございます。ちょっとの不安と大きな喜びに包まれておられるでしょう。進級されたお子さんの子育て中の保護者皆さんもおめでとうございます。

私が、小さなお子さんというか赤ちゃんに出会って、「まあ、賢そうな子」と言いますと喜ばれる保護者の方が多いように思います。「まあ、お元気そうな子」と言われるのとどちらがくすぐられるでしょうか?寝返りが遅い、ハイハイもできない、言葉が遅い、とご自分のイメージや育児書と違う我が子を見て心配になる方もおありかな。

創世記2章によると「エデンの園」には、食べるに良い実のなる沢山の木と、その園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」の二本の木が生えていたと言われています。「命の木」とは文字通り、命を育み、生き生きと人を生かす神の恵みの賜物を象徴しています。「善悪の知識の木」という表現は多少複雑な言葉になっています。古代の神話では「命の木」の物語は良くあるそうですが、その横に「善悪の知識の木」が生えていたというヘブライ語聖書の物語は珍しいそうです。「善悪」とは道徳的、倫理的事柄のことであり、「知識」とはそれを判別する知的能力を育むことです。この物語を語った人たちは「善悪を知識の木」という複雑な表現で何か言いたかったことがあるのでしょう。先ほど「賢そうな子」と言いましたが、これは「善悪の知識系」の表現であり、「お元気そうな子」という表現は「命の木系」の関心であると言えるかもしれません。

さて、創世記2:16—17には意地悪に聞こえそうなことが書いてあります。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』おいおいそういわれるとかえってそれに注目しちゃうよ! そもそも、そんな物騒な木を生えさせるなよ!と言いたいのですが、人は知識を求め、分別知を得ること、それを生かして知恵ある生活をすることから逃れることはできないのは確かです。そして、人が自分の得た知識を適正にコントロールすることは難しいことも確かです。人は知識を得、他者を支配できるようになると、あたかも神であるかのように傲慢になったり、多少知識の面で課題があると自己卑下などに陥ってしまうのです。そして外見上はどうであれ、命が枯渇してきます。たぶん、命が生き生きと溢れ、しかも「善悪の知識」の両方を持つ、あるいはその両方のような存在は神のみなのでしょう。

「二重拘束」(double binding)という言葉があります。「元気な子」になりなさいという要求と「出来る子」になりなさいと言われると子どもたちはどちらを選んだらよいのか混乱します。また、「仲良くしなさい」と言いながら保護者の態度が極めて競争的、攻撃的であればこれも子どもたちいには二重拘束になるでしょう。「あたなのためよ」と言いながら結局は保護者のためであることなど子どもたちはすぐ見抜きます。私の孫は今年大学を卒業し、就職しました。望みの大学には入れず、浪人してもだめでした。「では、きみはできる子路線ではなく、良い子路線で行け!」というと「はあい!」と応えてくれまして、その路線を悠々と進んでいます。個性があります。いや、実は、面白いことが「できる子」でもあるのです!つまり、この世の枠組みでは測りにくいだけです。子どもたちはこのような愚かな保護者たち、周囲の者たちを超えて成長していきます。だから、ご安心を!

やはり、子育てには、保護者たちが育てられ、成熟していく(異質な他者とコミュニケーションができる人になる)必要があるでしょう。

gotop