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子育て・あのね

2023年3月の過去ログ

着実に、スモールステップで

2023年3月31日

東福岡幼稚園参与

福岡女学院大学人間関係学部子ども発達学科准教授

小栗 正裕

3月から4月へ。先日、幼稚園を卒園した子どもたちはいよいよ小学校へ。卒園の年ではない子どもたちも、進級を迎えます。幼稚園から小学校へ。今までのクラス(保育室)から、新しいクラス(保育室)へ。日常を過ごしていた環境が大きく変わる季節です。

この時期の小学校では20年ほど前から「小1プロブレム」と呼ばれる現象について語られるようになりました。小学校に入学した子どもたちが小学校の指導形態に適応できずに具体的には40分間の授業をイスに座っていることができない、静かに過ごしていることができないなどの状態を指しています。この問題が語られるようになった当初は、「子どもがしつけられていない」として、幼稚園や保育所、あるいは家庭の問題と考えられることも多かったのですが、近年では幼稚園・保育所と小学校の「段差」の問題であることが理解されるようになってきました。遊びを中心としてきた幼稚園・保育所での生活から、もしも4月になって急に座って授業を聞くことを求められるならば、それ自体に無理があるでしょう。

今日の小学校ではこの「段差」の解消に向けた取り組みがなされています。入学当初の時期は「スタートカリキュラム」として、授業時間の区切りを短くしたり、教科の枠をゆるやかにして遊びを取り入れながら学ぶなどをして、学校生活へのスムーズな導入が図られています。幼稚園・保育所でも年長クラスでは小学校での学習をイメージして(しかしもちろん、幼稚園・保育所のあり方から逸脱しない形で)活動が考えられるようになっています。

急激な環境の変化、子どもに求めるレベルをいきなり変えていくことは、子どもを戸惑わせることになります。少しずつ、子どものペースに寄り添いながらスモールステップで歩むことを大切に考えていくことが必要でしょう。

とはいえ、ある程度の環境の変化は子どもに「成長した」「お兄ちゃん・お姉ちゃんになった」という実感を得させるものでもあります。完全にフラットにしてしまうのではなく、(乗り越えられる)適度なチャレンジやステップも必要です。そうした意味でも、スモールステップが大切なのです。

 

さて、私は本年3月をもちまして、任期満了により東福岡幼稚園理事および理事長を退任となります。4月からは新たに、参与として引き続き本園にかかわってまいります。本コラムにつきましても、引き続き機会を見つけて執筆させて頂ければと考えております。

今後とも、どうぞ、よろしくお願い致します。

「学ぶことは楽しいこと」が根本

2023年3月14日

東福岡幼稚園 理事長

福岡女学院大学人間関係学部子ども発達学科 准教授

小栗 正裕

 

年長・ひかり組の園児たちは、卒園を迎えます。幼稚園を卒園して、小学校に入学します。「学校生活」の始まりです(実は、幼稚園も「学校」のひとつではあるのですが)。

小学校に入学すると、何が変わるでしょうか。大きなランドセルにたくさん詰められる教科書、「国語」「算数」などと書かれた時間割表…。鉛筆や消しゴム、ノートなどの「学用品」もランドセルに入れて持って行く。

学校で取り組むことを、私たちはしばしば「勉強」と呼ぶことがあります。教科書に書かれたことを理解し、そこに示された課題に取り組むことを、「勉強」と呼ぶことが多いでしょう。

私は個人的にはこの「勉強」という言葉はあまり好きではありません。「勉強」とは「強」いて「勉」めるの字を書き、「無理をする」「苦労する」という意味が含まれています。「勉強しまっせ、引っ越しの…」のテレビCMを知る方も少なくなられたようですが、私が大学院生時代を過ごした関西では、お店の人はよく「勉強しまっせ」と言って、「無理」をして(?)値引きをしてくれていたものでした。もちろん、子どもにとっても「努力」することが大切だとは言えるでしょう。しかし、学校で学ぶことは「無理」「苦労」といった「苦行」でありさえすれば良いというものではありません。

本園の園児たちは、きっと幼稚園で取り組むことを「勉強」だとは思っていないことでしょう。幼稚園の教育は「遊び」を中心とすることがその特性とされているからであり、保育の中で何かに取り組む時には、子どもたち自身が「おもしろそう」「やってみたい」と思えるような動機付けをすることを大切にするからです。子ども自身が「楽しい」と思えるから、それは「遊び」となります。子ども自身が興味を持ったことに没頭するのですから、それが「勉強」であるはずがありません。しかし、それを通して子どもたちは工夫することや身のまわりのさまざまな物事、友だちとの関わりなど、多くの「学び」を受け取ります。もちろん、幼稚園の教師たちはそれらの「遊び」から何を「学ぶ」かということを見通した上で計画的に保育をするのですが…。

小学校に入れば教科書も時間割もありますが、本来、この「学び」の本質は変わらないと言っても良いでしょう。小学校に入って始まる最初に始まる教科のひとつに「生活(科)」があります。この教科は1989(平成元)年の小学校学習指導要領改訂で生まれた比較的新しい教科ですが、それ以前は、今日では3年生から始まる「理科」「社会」が1年生から学ばれていました。1,2年生の「理科」「社会」を廃止して「生活(科)」が新しく生まれた背景には、身のまわりのさまざまな物事を「自然のもの」「社会のもの」を区別してとらえるのではなく、子どもたち自身がさまざまに興味・関心を持ちつつ、教師による説明ではなく具体的な体験を通して学ぶことが適切であると考えられたことがありました。小学校ではそれを「遊び」と呼ぶことはやや少なくなりますが、子ども自身が「おもしろそう」と思ったことに、自ら取り組むことを通して「学ぶ」という考え方は、小学校でも引き続き大切にされているのです。

「学ぶ」ことは、「知る」こと、「良くなる」こと、「できるようになる」ことですが、そのことによって「うれしい」と思うことは、さらに「知りたい」「良くなりたい」「できるようになりたい」と思う動機付けであり、「学び」のサイクルを生むでしょう。「学ぶことは楽しいこと」です。その最初のきっかけは、「おもしろうそう」「やってみたい」と思う気持ちです。幼稚園で大切にしてきたこの気持ちを、卒園して小学校へ入学していく、ひかり組の子どもたちには、これからも大切にし続けてほしいと思っています。

複眼的な見方で人を見ること

2023年3月9日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

 

皆さんは、お子さんたちがどのような子になるようにイメージしていますか。米国の神学校で覚えた英語に holistic(wholistic) という言葉があります。キリスト教教育学で良く用いられていました。人を総合的、全人的に理解し、共に生きようということです。医療では「全人医療」などという言葉もあるようです。創世記1章26-27節によると、人は「神のかたち、神の似姿」に創造されたと言います。いろいろな解釈がありますが、「神のかたち」とは人間に本来備わった実体というより、語りかけに対して応答し、他者との関係に生きる「人格」について書かれているという解釈が現在では主流です。人はこの世(被造世界)における他者との関係において、自分自身との関係において(自己受容の課題です)、そして神との関係に生きるように造られています。これが総合的、全人的理解です。対他関連が旨くいかないと他者を欲望の対象として「もの化」し、また「もの化」される、いわゆる「疎外」が生じます。対自関係が旨く行かないと「自分が好きでない」「自己肯定」「自己受容」のしにくい人になります。対神関係では偶像礼拝者となり拝金主義から健康神話などこれは様々です。人は真の神を信じるように造られているので、何か他の神々に隷属してしまうのです。

創世記2章7節はこの人間理解よりも古いもので牧歌的です。人(アダム)は土(アダマ)から造られ、その鼻にいのちの息を吹き入れられて「生きた魂」となったとあります。男女(LGBTの方を含めて)は人として「アダム」であり、土から造られている。ここには身体と魂の分離はなく、一体であるという全人的人間観が見られます。

キリスト教徒ではないギリシヤ人には、人は肉体という牢獄に閉じ込められた魂であるという理解があり、一方で体育が重要視されはしましたが、他方、魂には永遠性が宿ると考えたようです。そして、魂(生の原動力)は知・情・意の3つの要素からなっていると考え、知育、情操教育、意志の訓練(躾)を目指したのです。しかし、このバランスは難しいです。夏目漱石は『草枕』の冒頭で、「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。」と言っています。

皆さんは、お子さんたちがどのような人になることを希望していますか。成績が良く、知的に優れた人ですか? あるいは情感豊かな人ですか? あるいは情欲の誘い(wish, desire)に抗って「意志」(will)を通せる人でしょうか。そのバランスを取るというのが全人的人間像ですが、それらにまたコミュニケーションの上手さ(「社会性」)など欲張った希望もあるでしょう。

ここでその子に合った教育について考えてみましょう。スイスの小学校の確か1年生の子どもです。教師の判断で「留年」が決まりました。私は、保護者の反応を伺っていました。「辛いかな?!」。するとその子のお母さんは、にこにこして「ありがとうございます。税金を使ってもう一年この子に合った教育をしてくれるとは!」と言われたのです。自分のメンツや社会通念ではなく、子どもの人格を大切にする姿勢です。その子の成長の時に合わせるのです。

私自身はかなりの悪ガキのいたずら小僧でした。知情意のバランスで言えば多少、知(悪知恵?)に長けていてバランスという考えは好きではありません。ロボットのような完全なバランス人間には面白みがありません。スイスには何と「イタズラして良い一日」という日があり、その日は子どもたちは爆竹を鳴らしたり、悪ふざけの限りです。ある子が鉄道駅の自販機だったか券売機でしたか、コインを入れる処にチューインガムを貼り付けていました。「コラ、これは少しやりすぎ!」と叱ったものです。大人(外国人の)と子ども(スイスの)の対話です。全人的とはバランスが取れていて良い、家庭的にも、社会的にも「扱い易い人」になるということではなく、人間は、身体的、精神的、知的、心理学的、社会的、経済的、その他、多様で、複眼的な視野で相互に向き合いながら、その人に合った仕方で生きられるように少し支援してあげることなのでしょう。

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