2023年2月の過去ログ
宗教教育の重要性と政教分離原則
東福岡幼稚園理事
松見 俊
安倍晋三元首相の暗殺事件の犯人とされる男性の話から旧「統一協会」(私はこのカルト集団を「教会」と認めていないので、この団体が本来呼ばれていた「協会」と称する)と政治家との深い関係が問題となり、カルトとは何か、宗教とは何かが問われている。「宗教」一般へのバッシング(度を越した非難)も懸念されている。公明党、創価学会が慌てているという。
このような一連の報道の一部によると、統一協会の集金の90%以上が日本人からのものであり、世界で、日本人ほど騙されやすい人々はおらず、この「騙され易さ」は本来の「宗教」の基盤がない、あるいは脆弱であるからではないかと言われている。家族などに何か不幸があると祟りがあると言われると心が揺らぐらしい。嫌なことなど日常茶飯事なのに!ここでは「カルトとは何か」を詳論はしないが、宗教教育の重要性と政教分離原則について考えてみたい。
政教分離原則とは17世紀、我がバプテストが英国で唱え、米国で「憲法」に明文化されたもので、政治・政府と宗教制度の分離のことである。「日本国憲法」はその最先端を行き、憲法第20条に明文化されている。政治が宗教に過度に関わると政治による宗教利用(日本社会では戦前・戦中の天皇制「国家神道」であったが)が生じて、政治的批判が困難になり、政府が暴走し、逆に、ある宗教が政治的に優遇されると信仰そのものが歪められるからである。そこで、米国では公立学校で、一切の宗教活動を禁じている。例えば、公教育においてキリスト教教育をすれば、モスリムや他の宗教を持つ者、あるいは無宗教の子どもたちに圧力となるからである。このような政教分離原則は、宗教教育は家庭で、あるいは/そして、教会やモスク、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)などで行われることが前提とされている。米国は極めて宗教的な社会であった。しかし、「世俗主義」が進んで、教会やシナゴーグでの教育、また、家庭での宗教教育がなされないと子どもたちの精神に「空白」が生じてしまう。ここに問題が生じる。価値の基準の喪失の危機である。昨今の大問題である。皆さんはIBMという米国系の企業をご存知だろう。この企業の日本法人に勤める方の息子さんが、私が牧師をしていた、千葉県松戸市にある教会の教会学校(日曜学校)に来るようになった。するとお父さんも来られた。IBMの上司が、息子さんが通っている教会に出席して、息子さんがどのような宗教教育を提供されているか保護者として一緒に勉強しなさいと勧めてくれたとか。流石IBMである。
他方、欧州では政教一致である。そこでの工夫について述べておこう。私の息子たちの小学校では「宗教の時間」が一週間に一コマある。ローマ・カトリックが良いと言えば、その時間はリュシュリコン村のカトリックの司祭さんが来てくれる。プロテスタントの家族の子どもであれば、村の改革派(カルバン系)の牧師さんがクラスを持つ。我が家はプロテスタントをもっとプロテストする(抗議・改革する)「バプテスト」なので、わが家の子どもたちはこの時間帯は遊んでいて、日曜日には日曜学校に通っていた。
私がここで言いたいのは欧米の文化・宗教事情ではない。言いたいことは「宗教教育」がなされないのはあり得ないことであり、それはアジアやアフリカ諸国でも同じである。ある宗教を持たないことは、極端に言えば、「人間」とみなされない。人生の土台になる価値基準の無い人とは付き合えないからである。
最後に定義をひと言。「宗教教育」には仏教教育、ヒンズー教教育、モスリム教育、そして、キリスト教教育などがある。一番広い概念である。「キリスト教教育」には「場」によって「キリスト教家庭教育」、「教会教育」、「キリスト教学校教育」などがある。「教会教育」には「教会学校」、教会での研修・修養会などがある。
「主を恐れることは知識のはじめである。」(口語訳 箴言1:7a)はじまり、つまり、土台のない知識の集積は常にうつろい、高慢になり、あるいは、自己受容不全になり、暴走する。
「嫉妬」について
東福岡幼稚園理事
松見 俊
スイスのチューリッヒ郊外の神学院時代に、12月末(クリスマスと年始の間)に家族を呼び寄せました。さっそく二人の男の子をリュシュリコン村の公立小学校と幼稚園に入れました。アメリカンスクールに入れることもできたのでしょうが、お金がなく、また、折角だからと現地スイスの幼稚園と小学校に入れました。(チューリッヒの街中で出会ったヌスベルガー夫妻がスイス・ドイツ語を早速特訓してくれました。彼らはスイスと似た北海道の滝川に数年宣教師として奉仕され、チューリッヒで出会う日本人には手あたり次第声を掛けていたのでした。キリスト教信仰の国際的ネットワークです!)
数か月して小学校の保護者会がありました。土日はキリスト教(村の)の集会と礼拝があるので、平日でした。男性たちも参加しており、男女それぞれ仕事を休んで保護者会に出席しているようでした。
その時のテーマが「Eifersucht」でした。「嫉妬」「競争心」「猜疑」などと翻訳されます。担任の女性教員の話では、「小学1年生の私のクラスの子どもたちの家庭には、そろそろ妹や弟が誕生するかも知れない。(むろんそうではないケースもありますが)すると私のクラスの子どもたちは、母親あるいは父親あるいは近親の保護者の関心が生れたばかりの赤ちゃんに向けられ、「嫉妬」を覚えるかも知れないので、気を付けてあげて下さいね」というものでした。小学校の教師はそこまで考えるんだ!という強い印象を受けました。それ以来教会の献児式、新生児の祝福式の時には、当の赤ちゃんではなく、まず、お姉さん、お兄さんをハグしてから始めるようにしています。そして、「お兄ちゃん、お姉さんになって良かったね!」と言う言葉も禁物です。彼ら彼女らは、お兄ちゃんやお姉さんになったことを喜んでいる反面で、「私は私!ちゃんと名前で呼んで!」とも思っているようなのです。この時期、そして、皆さんのお子さんである幼稚園児の時期は、お友達を作り、ライヴァルと競争し、時には「嫉妬心」や「猜疑心」を持つのです。その葛藤をどのように乗り越えるか煩悶し、時に、赤ちゃん帰りをしたりします。E. エリクソンは、自我形成の7段階の初期において、① 信頼を学ぶ時期 世界全体としての保護者(母親)の大切さ、②自立とコントロ-ルが課題の時期 恥(排便の失敗)と疑いを越えて自立していくこと、弟・妹への「嫉妬」の問題、③イニシアティブと妥協を学ぶ時期 兄弟や遊び仲間との関係の構築の重要性、④健全な競争・達成感の確立の時期 傷付いたものへの配慮の必要性を挙げています。「嫉妬心」「猜疑心」「競争心」の葛藤という心の動きに対して、保護者はそっと見守ることが大切です。口が裂けても「嫉妬など怪しからん」などと言わないようにしましょう。「そうなんだ、寂しいねえ」と抱きしめてあげましょう。
旧約聖書の創世記4章には、「エデンの東」で起こった兄弟の葛藤の物語が登場します。アダムとエバの子どもカインとアベルの兄弟の物語です。結局、激しい競争心(比べ合うことによって)カイン(兄)がアベル(弟)を殺してしまいます。何と早々と創世記の4章の段階で聖書はこのような物語を描いているのです。しかし、神はカインを憐れみ、彼が復讐で殺されないように(アダムとエバ以外に復讐するような人たちはどこに居るのだという理屈はやめましょう)彼(の額)に「しるし」を付けたと言うのです。一説にはそれは十字架の形をしていたとも言われます。そうして、彼は「放浪者」となったのです。次に生れた三男「セト」がアブラハムに繋がる家系です。私は松見家の二番目の子ですが「長子」です。弟を殺し、放浪者として生きるカインが悲しくて、心にいつも引っ掛かっています。聖書は、人は人と比較し、比較されながら葛藤の中に生きていく、それが人間であることを赤裸々に描きます。
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