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子育て・あのね

子どもを神に捧げ、「受け取り直すこと」

2024年5月13日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

創世記22章1~14には、信仰の父と呼ばれるアブラハムが、年老いた夫妻にようやく与えられた一粒種のイサク、神の祝福の要であるイサクを神に捧げるために生贄にしようとした物語が登場します。ひとは生きる苦悩の中で、人を人身御供として何者かに捧げることは古今東西伝わる伝承です。このアブラハムーイサク物語の背景には、長子を殺して神に捧げる「モレク」の異教が存在していると推定されます。この野蛮な異教の風習を批判・克服するために、イスラエル(これは現在のイスラエル国家とは別物で、現在のイスラエルは本来の神の民「イスラエル」から全く逸脱しています)の神は、人の替わりに「小羊」を備えて下さること(8節)、「主の山に、備えあり」(14節)を強調することが主眼です、それにしても神はこのような過酷で理不尽、無慈悲なことを求めるのか?と問わざるを得ないでしょう。アブラハムは神に従順に生き過ぎて、神のテストに不合格であったのかも知れません。神はアブラハムの反発、怒りを望んでいたのかも知れません。むろん、動物を殺し、日常的にそれらを食べている自分たちを棚に上げて、自分たちを問わず、神を問うことも問題でしょう。

19世紀、デンマークの哲学者で著述家、信仰者であるキルケゴールは、結婚をせず、生涯子どもを持つことはありませんでした。今から考えると彼の中に多少、性差別的視点がないわけではありません。

しかし、彼の『おそれとおののき』の「調律」そして、その後の文書において、この物語の3つの解釈の可能性を呈示しています。第一はアブラハム自身がイサクから距離を置き、彼に信仰の歩みの促しを与える物語(息子の親離れ、母サラの子離れの必要性)、第二は、アブラハム自身が神を見失い、神の過酷な要求に絶望してしまう物語(倫理性と信仰の関係理解の危うさ)、それが母サラといとし子イサクの自律(自立)を生み出すこと、父のもつ、社会性の役割を演じる物語として理解することです。第三は、自分よりも神を大切にする父の姿を見て絶望し、信仰を失ってしまうイサクの物語としての解釈です。

いずれにせよ、与えられたこどもをいったん、神に捧げ、手放さないと親による子どもの「私物化」が起こり、最終的には親が子を食い殺すことになり、他方、神にいったん捧げたこどもを「受け取り直す」ことがないと、放任主義の無責任となるに違いありません。子育て、親育ちはまさに「冒険」です。アブラハムーイサク物語は、この微妙な愛着と距離感(ハラスメントを含む、いわゆる「愛着障害」)についての物語なのでしょう。

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