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子育て・あのね

過去ログ

「嫉妬」について

2023年2月4日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

スイスのチューリッヒ郊外の神学院時代に、12月末(クリスマスと年始の間)に家族を呼び寄せました。さっそく二人の男の子をリュシュリコン村の公立小学校と幼稚園に入れました。アメリカンスクールに入れることもできたのでしょうが、お金がなく、また、折角だからと現地スイスの幼稚園と小学校に入れました。(チューリッヒの街中で出会ったヌスベルガー夫妻がスイス・ドイツ語を早速特訓してくれました。彼らはスイスと似た北海道の滝川に数年宣教師として奉仕され、チューリッヒで出会う日本人には手あたり次第声を掛けていたのでした。キリスト教信仰の国際的ネットワークです!)

数か月して小学校の保護者会がありました。土日はキリスト教(村の)の集会と礼拝があるので、平日でした。男性たちも参加しており、男女それぞれ仕事を休んで保護者会に出席しているようでした。

その時のテーマが「Eifersucht」でした。「嫉妬」「競争心」「猜疑」などと翻訳されます。担任の女性教員の話では、「小学1年生の私のクラスの子どもたちの家庭には、そろそろ妹や弟が誕生するかも知れない。(むろんそうではないケースもありますが)すると私のクラスの子どもたちは、母親あるいは父親あるいは近親の保護者の関心が生れたばかりの赤ちゃんに向けられ、「嫉妬」を覚えるかも知れないので、気を付けてあげて下さいね」というものでした。小学校の教師はそこまで考えるんだ!という強い印象を受けました。それ以来教会の献児式、新生児の祝福式の時には、当の赤ちゃんではなく、まず、お姉さん、お兄さんをハグしてから始めるようにしています。そして、「お兄ちゃん、お姉さんになって良かったね!」と言う言葉も禁物です。彼ら彼女らは、お兄ちゃんやお姉さんになったことを喜んでいる反面で、「私は私!ちゃんと名前で呼んで!」とも思っているようなのです。この時期、そして、皆さんのお子さんである幼稚園児の時期は、お友達を作り、ライヴァルと競争し、時には「嫉妬心」や「猜疑心」を持つのです。その葛藤をどのように乗り越えるか煩悶し、時に、赤ちゃん帰りをしたりします。E. エリクソンは、自我形成の7段階の初期において、① 信頼を学ぶ時期 世界全体としての保護者(母親)の大切さ、②自立とコントロ-ルが課題の時期 恥(排便の失敗)と疑いを越えて自立していくこと、弟・妹への「嫉妬」の問題、③イニシアティブと妥協を学ぶ時期 兄弟や遊び仲間との関係の構築の重要性、④健全な競争・達成感の確立の時期 傷付いたものへの配慮の必要性を挙げています。「嫉妬心」「猜疑心」「競争心」の葛藤という心の動きに対して、保護者はそっと見守ることが大切です。口が裂けても「嫉妬など怪しからん」などと言わないようにしましょう。「そうなんだ、寂しいねえ」と抱きしめてあげましょう。

旧約聖書の創世記4章には、「エデンの東」で起こった兄弟の葛藤の物語が登場します。アダムとエバの子どもカインとアベルの兄弟の物語です。結局、激しい競争心(比べ合うことによって)カイン(兄)がアベル(弟)を殺してしまいます。何と早々と創世記の4章の段階で聖書はこのような物語を描いているのです。しかし、神はカインを憐れみ、彼が復讐で殺されないように(アダムとエバ以外に復讐するような人たちはどこに居るのだという理屈はやめましょう)彼(の額)に「しるし」を付けたと言うのです。一説にはそれは十字架の形をしていたとも言われます。そうして、彼は「放浪者」となったのです。次に生れた三男「セト」がアブラハムに繋がる家系です。私は松見家の二番目の子ですが「長子」です。弟を殺し、放浪者として生きるカインが悲しくて、心にいつも引っ掛かっています。聖書は、人は人と比較し、比較されながら葛藤の中に生きていく、それが人間であることを赤裸々に描きます。

微笑ましい出来事:人はどこから悪くなるのか?

2023年1月18日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

新年をいかがお過ごしですか?喜ばしいはずの新年に人はどこから悪くなるのかというテーマでコラムを書くことをご容赦ください。実は悪くなることはそんなに悪くないということを強調したいのです。

私は牧師や教会以外の働きの責任が幾つかあり、子育て中に「じゅっくり」子どもたちを「観察する」余裕がありませんでした。「保育」において子どもたちを「観察」することは大切でしょう。まあ、子どもからすれば、観察されたらかなわないでしょうが…。

そこで最初の孫がどこから悪くなるのか観察していました。祖父母と孫との間にはある程度「距離」がありますから「観察」もできる訳です。この最初の男児の孫は「動くもの」、特に「トーマス機関車」を綺麗に並べ、同じ目線になるためにうつ伏せで寝て、ああ、みんな「仲間だ」と叫んでいました。それを聴いて「仲間」とはいい言葉を覚えたなあと喜びました。

確か三歳違いの弟(正確には三年一ヶ月差)が赤ちゃんでしたから、四歳くらいの時でした。ですからトーマス機関車に凝る前のことかも知れません。一両でしたが「電車」を買ってくれと言うので買ってあげました。屋根の処についているスイッチをひねると、ドアが二箇所開閉する仕掛けでした。かなりの時間スイッチをカチャカチャしてドアの開閉で遊んでいました。処がしばらくすると、私の方を向いて「にやり」と笑ったのです。いつもの「にこにこ」とは違う「にやり」で、私はちょっと不安な感じでした。すると案の定、彼が電車を持って私に近づき、私の足の親指をドアに挟もうとするではありませんか!「そんなことしたらダメだよ!」というと隣の六畳の畳の部屋に寝かされていた弟の処にいって、彼の足指をドアに挟んで喜んでいるではありませんか!弟は何をされているのかも分からず、キャッキャと上機嫌です。そこでお爺さんは考えました。どうして上の孫は人の足の指を挟むということを考えたのだろうかと。

ヘブライ語(旧約)聖書の創世記3章1節には、「主なる神が造られた野の生き物の内で、最も賢いのは蛇であった。」とあります。蛇は日本でも世界各地でも、知識あるもの、神の使いとされていますね。この蛇の「誘い」によってエバとアダムが、神から禁止されていた「善悪を知る知識の木」の実を食べてしまった物語が展開されています。ここでは「罪」という用語は一切登場しません。この世界に悪が存在するのはどうしてなのかは現在でも哲学的、宗教的に十分説明できない大問題なのです。

しかし、子育て中の皆さんにお知らせしたいことは、創世記のこの物語では悪は神様起源でも人間起源でもない「蛇」の所為にされているというヘブライ人の知恵を知っておくことです。そして、人の悪は成長して知恵がついてくると出て来るのではないかという暗示です。確かに、善悪の区別をしてあげること、躾をしてあげることは保護者の役割でしょう。しかし、保護者が余りに痙攣的に「善悪のケジメ」をつけ過ぎると子どもたちの善悪の彼岸にある「いのち」は委縮してしまいます。悪いことを思いつくことは知恵の始まりであり、成長の一プロセスであるという余裕を持って当たりましょう!まあ、悪いことがこの程度の微笑ましいものであると良いのですが…。

クリスマスの思い出

2022年12月21日

東福岡幼稚園理事

松見 俊

クリスマスおめでとうございます。クリスマスはイエス・キリストの誕生日です。神がイエス・キリストをこの世界にプレゼントしてくれたことをお祝いし、互いにプレゼント(贈り物)をする習慣がありますね。皆様はどのようなクリスマスをお迎えになるのでしょうか?

私の子どもたちが幼稚園児の頃は母の日や父の日(現在は片親の方がおられるのでこのような呼称は避けていますが)そして誕生日にはたどたどしいカードと共に「お手伝い券」や「肩もみ券」などを貰ったものですが、最近はそのようなことはありません。どのくらいの歳からそんな習慣がなくなってしまったのでしょう。子どもたちが成長すると保護者としてはちょっと寂しいです。

子育て関連で、スイスでのクリスマスの思い出を書き留めてみます。実は、イエス様のお誕生日のお祝いであるクリスマスと、贈り物をあげたり、貰ったりするサンタクロースの日は別のものです。ヨーロッパでは、12月6日にサンタ・ニコラウスの日があります。「サンタクロース」はセント・ニコラウスのオランダ語読みです。この日、玄関のドアの前に靴を置いておくと良い子の靴に贈り物を入れてくれる習慣です。むろん、セント・ニコラウスさん自身も紀元3世紀~4世紀にイエス様を主と信じて、貧しい人々に贈り物をプレゼントした人で、現在でも欧州のそこら中に聖ニコラウス教会が建てられています。(贈り物はさておき、欧米のクリスマスは、日本のお正月のように家族みんなが集まる日です。)

私の次男のことです。当時は、スイスのチューリッヒ郊外の神学校の家族寮に住んでいました。彼が幼稚園の年中さんくらいのことです。玄関前に靴を置いておくと、翌朝、お菓子のプレゼントが入っていて大喜び! ここからが彼らしい処です。「パパ、ダメモトで、今夜も靴を出して置こう!サンタさんが間違えてお菓子をまた入れてくれるかも知れない!」(長男はそんな欲張りを言いません。)子どもの夢を壊したくない私は急いで数分歩いて、「つた」の絡まる神学校本館の地下室に行き、チョコレートの販売機でチョコレートを幾つか買って息子の靴の中に入れました。すると次の朝、彼は大悦び。「パパ、サンタさん間違えてまたプレゼントくれた!」「そう良かったね!」。処がこの子ここで終わらない。「パパ、サンタさんまた間違えるかもしれないので、靴を出しとくよ!」と来ました。私は、「いい加減にして! 欲張り!」とちょっと大きな声を出しました。彼は、今は人の金を数える銀行員。高校生になった頃、「おかしいなア、あのチョコレート、神学校の地下で売っていたなあ?」と思ったそうです。あはは!

サンタさんを信じる子どもと保護者の「化かし合い?」。でも小学校に入ると訳知り顔の「おませ」な子が「サンタって、実は、親(保護者)なんだよ」という夢の無いことを言い出すのです。これも子どもたちの成長過程であり、「子育て」のひと苦労です。

ある時、教会員の女性から質問がありました。「先生、私の娘、小学校6年生にもなるのに、まだサンタクロースの実在を信じているんですが、大丈夫でしょうか?」私「もちろん、大丈夫!その内、信じなくなるよ!」これもまた、子育てのちょっとした寂しさと嬉しさでしょう。

お祈りすることを学ぶこと

2022年12月2日

2022年12月2日

東福岡幼稚園理事 松見 俊

キリスト教信仰に基礎づけられた幼稚園の保育の特徴は「祈ること」を共に学ぶ処にあると思います。私は東京都杉並区にあった「童話会」という幼稚園に通っていました。教会立の幼稚園ではありませんでしたが、園長夫妻がクリスチャンでした。ご夫妻が幼児教育に明確にプログラム化された「祈り」を導入されていたかどうかの記憶は定かではありません。でも、祈りの雰囲気は何とはなしに感じていました。食前の感謝の祈りが終わると園長先生のお連れ合いが微笑んで「では召し上がれ」と言われたことは記憶しています。

子どもたちが祈るようになることが素敵であると意識的に思ったのは、私が青年期にクリスチャンになり、教会学校(日曜学校)で小学生たちのお世話をするようになって以来であると思います。

幼児がお母さん、お父さんのために(あるいは片親のために)祈る人になる、その祈りを親が聞くことができることは親にとっては慰めであり、励みではないでしょうか。祈りは食物を与えてくれる神さまや農業、漁業、林業などに携わる人々(あるいはお巡りさんや消防士さん?)への感謝へと広がり、お友達のための執り成しの祈りも加えられていきます。

親はいつまでも、どこにでも物理的に子どもたちと共にいられるわけではありません。子どもたちが「お父さん」、「お母さん」と呼びかけたい時と場所に、「そこに」いてあげられることも必ずしも叶いません。そのような時に、子どもたちが「神さま」と祈ることができるとは何と幸いなことだろうと思うのです。保護者(親も)一安心ではないでしょうか。

あかちゃん時代、「いない、いないバ、ー」を喜ばなかった子どもたちは少ないと思います。大好きな人が一瞬目の前から「いなくなり」ちょっと心配、でも、すぐに、「バー」と出てきてくれる。目に見えないけれど、そこにいてくれるという経験の積み重ねが、自立への第一歩です。不在(absence)は存在しないこと(nonexistence)ではないのです。目には見えませんが、確かに存在する神様に祈ることができるとは素敵なことでしょう。保護者だってちょっと気を緩めることだってあるのですから。

ある時、幼児が「運動会の日にお天気が良いように!」と祈ったら、一人のませた少年が「天候は神が決めるんじゃない!そんなこと祈っても仕方ない!」と言いました。「テルテル坊主」をベランダに吊り下げるのがキリスト教的であるかどうかは分かりません。でも、私はあのませた少年にひとこと言いました。「もし雨が降ったとしたら『どうしてだろう?』と一緒に考える人になって欲しいよ。きっと、『お願い!雨を降らせてください!』」と祈った誰かがいたのかも知れないね!」と言ってあげたらどうだろう」と。祈りが聞かれなかったとしたら、それをどのように理解したら良いか、その説明責任は保護者にあるのかも知れません。いや、納得のゆく説明などはないのかも知れないし、する必要もないのかも知れません。保護者(親)は神様ではないのですから。幼児たちが祈る子になると、保護者さんも考える人になるかも知れません。

自由に行かせてあげることと抱き留めてあげること

2022年11月1日

2022年11月1日

東福岡幼稚園理事 松見 俊

私たち(私と配偶者)には、三人の子どもたちと五人の孫たちがいます。それぞれ個性的です。子育てを考えるとほとんど失敗と思えることばかりで、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思っています。その失敗談?を裏打ちにしながら、「子育て」についてこのコラム欄で少しずつ紹介したいと考えています。

幼児教育あるいは教育全般への情熱と造詣で名高いスイスに4年半留学していました。ドイツ語圏のチューリッヒ中央駅から100メートルくらいバンホーフシュトラーセ(中央駅通り)を往くと右手に教育者ペスタロッチの銅像があります。同じスイスのフランス語圏の都市であるジュネーヴ生まれの有名なルソーの教育を継承した人です。彼らのいわゆる「自然教育」論と私の考えとは違う処もあるのですが、それらはまた別の機会にお話しましょう。

また、一年間ほど米国ヴァージニア州リッチモンドの神学院でも学ぶ機会がありました。英米の教育論、発達心理学の本も幾つか読みました。私の教育(保護者が子どもたちを一方的に「教育」するのではないので、親も親として子どもたちと一緒に育まれ、育んでいくことが重要ですから、「共育」という言葉が良いのですが)の経験と発達心理学の少々の学びと、専門分野であるキリスト教神学の知見を組み合わせて折々に子育てについてお話するつもりです。

ロバート・キーガンという人が『展開する(evolving)自我 人間的発達における問題とプロセス』という本を書いています。(英文、1982年)人は生涯にわたって成長していくのですが、乳幼児は幾つかの「段階」を経て成長していくと言います。最初の段階を「環境・保護者と自分との区別ができない合体的自我」(incorporative Self)、次の段階を「衝動的自我」(impulsive self)、そして、第三段階を「皇帝的、私が王様的自我」(imperial Self)、第四段階を「人格相互間的自我」(Interpersonal Self)と名づけています。これらは乳幼児ではなく、親である私のことだ!と思われたり、今の自分たちの子だ!と思われるでしょう。今回は、その子(人)のやりたいようにしてあげること(Letting go)と抱き留め・保護してあげること(Holding on)の仕方が大切であることを知りましょう。私の失敗は、抱き留めてあげるべき時に突き放し、自由にさせてあげるべきときに過干渉にしなかったかということです。 (次号に続きます)

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