お祈りすることを学ぶこと
2022年12月2日
東福岡幼稚園理事 松見 俊
キリスト教信仰に基礎づけられた幼稚園の保育の特徴は「祈ること」を共に学ぶ処にあると思います。私は東京都杉並区にあった「童話会」という幼稚園に通っていました。教会立の幼稚園ではありませんでしたが、園長夫妻がクリスチャンでした。ご夫妻が幼児教育に明確にプログラム化された「祈り」を導入されていたかどうかの記憶は定かではありません。でも、祈りの雰囲気は何とはなしに感じていました。食前の感謝の祈りが終わると園長先生のお連れ合いが微笑んで「では召し上がれ」と言われたことは記憶しています。
子どもたちが祈るようになることが素敵であると意識的に思ったのは、私が青年期にクリスチャンになり、教会学校(日曜学校)で小学生たちのお世話をするようになって以来であると思います。
幼児がお母さん、お父さんのために(あるいは片親のために)祈る人になる、その祈りを親が聞くことができることは親にとっては慰めであり、励みではないでしょうか。祈りは食物を与えてくれる神さまや農業、漁業、林業などに携わる人々(あるいはお巡りさんや消防士さん?)への感謝へと広がり、お友達のための執り成しの祈りも加えられていきます。
親はいつまでも、どこにでも物理的に子どもたちと共にいられるわけではありません。子どもたちが「お父さん」、「お母さん」と呼びかけたい時と場所に、「そこに」いてあげられることも必ずしも叶いません。そのような時に、子どもたちが「神さま」と祈ることができるとは何と幸いなことだろうと思うのです。保護者(親も)一安心ではないでしょうか。
あかちゃん時代、「いない、いないバ、ー」を喜ばなかった子どもたちは少ないと思います。大好きな人が一瞬目の前から「いなくなり」ちょっと心配、でも、すぐに、「バー」と出てきてくれる。目に見えないけれど、そこにいてくれるという経験の積み重ねが、自立への第一歩です。不在(absence)は存在しないこと(nonexistence)ではないのです。目には見えませんが、確かに存在する神様に祈ることができるとは素敵なことでしょう。保護者だってちょっと気を緩めることだってあるのですから。
ある時、幼児が「運動会の日にお天気が良いように!」と祈ったら、一人のませた少年が「天候は神が決めるんじゃない!そんなこと祈っても仕方ない!」と言いました。「テルテル坊主」をベランダに吊り下げるのがキリスト教的であるかどうかは分かりません。でも、私はあのませた少年にひとこと言いました。「もし雨が降ったとしたら『どうしてだろう?』と一緒に考える人になって欲しいよ。きっと、『お願い!雨を降らせてください!』」と祈った誰かがいたのかも知れないね!」と言ってあげたらどうだろう」と。祈りが聞かれなかったとしたら、それをどのように理解したら良いか、その説明責任は保護者にあるのかも知れません。いや、納得のゆく説明などはないのかも知れないし、する必要もないのかも知れません。保護者(親)は神様ではないのですから。幼児たちが祈る子になると、保護者さんも考える人になるかも知れません。