宗教教育の重要性と政教分離原則
東福岡幼稚園理事
松見 俊
安倍晋三元首相の暗殺事件の犯人とされる男性の話から旧「統一協会」(私はこのカルト集団を「教会」と認めていないので、この団体が本来呼ばれていた「協会」と称する)と政治家との深い関係が問題となり、カルトとは何か、宗教とは何かが問われている。「宗教」一般へのバッシング(度を越した非難)も懸念されている。公明党、創価学会が慌てているという。
このような一連の報道の一部によると、統一協会の集金の90%以上が日本人からのものであり、世界で、日本人ほど騙されやすい人々はおらず、この「騙され易さ」は本来の「宗教」の基盤がない、あるいは脆弱であるからではないかと言われている。家族などに何か不幸があると祟りがあると言われると心が揺らぐらしい。嫌なことなど日常茶飯事なのに!ここでは「カルトとは何か」を詳論はしないが、宗教教育の重要性と政教分離原則について考えてみたい。
政教分離原則とは17世紀、我がバプテストが英国で唱え、米国で「憲法」に明文化されたもので、政治・政府と宗教制度の分離のことである。「日本国憲法」はその最先端を行き、憲法第20条に明文化されている。政治が宗教に過度に関わると政治による宗教利用(日本社会では戦前・戦中の天皇制「国家神道」であったが)が生じて、政治的批判が困難になり、政府が暴走し、逆に、ある宗教が政治的に優遇されると信仰そのものが歪められるからである。そこで、米国では公立学校で、一切の宗教活動を禁じている。例えば、公教育においてキリスト教教育をすれば、モスリムや他の宗教を持つ者、あるいは無宗教の子どもたちに圧力となるからである。このような政教分離原則は、宗教教育は家庭で、あるいは/そして、教会やモスク、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)などで行われることが前提とされている。米国は極めて宗教的な社会であった。しかし、「世俗主義」が進んで、教会やシナゴーグでの教育、また、家庭での宗教教育がなされないと子どもたちの精神に「空白」が生じてしまう。ここに問題が生じる。価値の基準の喪失の危機である。昨今の大問題である。皆さんはIBMという米国系の企業をご存知だろう。この企業の日本法人に勤める方の息子さんが、私が牧師をしていた、千葉県松戸市にある教会の教会学校(日曜学校)に来るようになった。するとお父さんも来られた。IBMの上司が、息子さんが通っている教会に出席して、息子さんがどのような宗教教育を提供されているか保護者として一緒に勉強しなさいと勧めてくれたとか。流石IBMである。
他方、欧州では政教一致である。そこでの工夫について述べておこう。私の息子たちの小学校では「宗教の時間」が一週間に一コマある。ローマ・カトリックが良いと言えば、その時間はリュシュリコン村のカトリックの司祭さんが来てくれる。プロテスタントの家族の子どもであれば、村の改革派(カルバン系)の牧師さんがクラスを持つ。我が家はプロテスタントをもっとプロテストする(抗議・改革する)「バプテスト」なので、わが家の子どもたちはこの時間帯は遊んでいて、日曜日には日曜学校に通っていた。
私がここで言いたいのは欧米の文化・宗教事情ではない。言いたいことは「宗教教育」がなされないのはあり得ないことであり、それはアジアやアフリカ諸国でも同じである。ある宗教を持たないことは、極端に言えば、「人間」とみなされない。人生の土台になる価値基準の無い人とは付き合えないからである。
最後に定義をひと言。「宗教教育」には仏教教育、ヒンズー教教育、モスリム教育、そして、キリスト教教育などがある。一番広い概念である。「キリスト教教育」には「場」によって「キリスト教家庭教育」、「教会教育」、「キリスト教学校教育」などがある。「教会教育」には「教会学校」、教会での研修・修養会などがある。
「主を恐れることは知識のはじめである。」(口語訳 箴言1:7a)はじまり、つまり、土台のない知識の集積は常にうつろい、高慢になり、あるいは、自己受容不全になり、暴走する。