過去ログ
子どもを神に捧げ、「受け取り直すこと」
東福岡幼稚園理事
松見 俊
創世記22章1~14には、信仰の父と呼ばれるアブラハムが、年老いた夫妻にようやく与えられた一粒種のイサク、神の祝福の要であるイサクを神に捧げるために生贄にしようとした物語が登場します。ひとは生きる苦悩の中で、人を人身御供として何者かに捧げることは古今東西伝わる伝承です。このアブラハムーイサク物語の背景には、長子を殺して神に捧げる「モレク」の異教が存在していると推定されます。この野蛮な異教の風習を批判・克服するために、イスラエル(これは現在のイスラエル国家とは別物で、現在のイスラエルは本来の神の民「イスラエル」から全く逸脱しています)の神は、人の替わりに「小羊」を備えて下さること(8節)、「主の山に、備えあり」(14節)を強調することが主眼です、それにしても神はこのような過酷で理不尽、無慈悲なことを求めるのか?と問わざるを得ないでしょう。アブラハムは神に従順に生き過ぎて、神のテストに不合格であったのかも知れません。神はアブラハムの反発、怒りを望んでいたのかも知れません。むろん、動物を殺し、日常的にそれらを食べている自分たちを棚に上げて、自分たちを問わず、神を問うことも問題でしょう。
19世紀、デンマークの哲学者で著述家、信仰者であるキルケゴールは、結婚をせず、生涯子どもを持つことはありませんでした。今から考えると彼の中に多少、性差別的視点がないわけではありません。
しかし、彼の『おそれとおののき』の「調律」そして、その後の文書において、この物語の3つの解釈の可能性を呈示しています。第一はアブラハム自身がイサクから距離を置き、彼に信仰の歩みの促しを与える物語(息子の親離れ、母サラの子離れの必要性)、第二は、アブラハム自身が神を見失い、神の過酷な要求に絶望してしまう物語(倫理性と信仰の関係理解の危うさ)、それが母サラといとし子イサクの自律(自立)を生み出すこと、父のもつ、社会性の役割を演じる物語として理解することです。第三は、自分よりも神を大切にする父の姿を見て絶望し、信仰を失ってしまうイサクの物語としての解釈です。
いずれにせよ、与えられたこどもをいったん、神に捧げ、手放さないと親による子どもの「私物化」が起こり、最終的には親が子を食い殺すことになり、他方、神にいったん捧げたこどもを「受け取り直す」ことがないと、放任主義の無責任となるに違いありません。子育て、親育ちはまさに「冒険」です。アブラハムーイサク物語は、この微妙な愛着と距離感(ハラスメントを含む、いわゆる「愛着障害」)についての物語なのでしょう。
子どもたちの「成長・発達」の速度の違い
東福岡幼稚園理事
東福岡教会協力牧師
松見 俊
この原稿を書いているのは2024年2月です。キリスト教会暦では四旬節(レント)と言い、キリストの苦難と復活を覚えて過ごすシーズンです。年長「ひかり組」の園児たちはいよいよ「卒園」、新しい「学校」での生活が始まります。子どもたちも保護者の皆さんもワクワク、ドキドキでしょう。
園児たち、そして、私の孫たちをみていると、少しづつ成長していくのですが、その速度には家庭環境やその子の個性によって「速度の違い」があるように思います。ここでは「成長」とか「発達」という言葉そのものも持つ問題についても良く吟味しなくてはならないのですが、一応、今回はそれを見送ります。ただ、教育論としては、教育とは「社会に馴染み、社会で生きていくためのコツ・ルール」を教えていくという考え方とその子が本来持っている本質や能力を引き出してあげることという2つの考え方があり、その両方のバランスが大切です。「躾」ということを考える時に、保育者も保護者も悩ましい想いをするのでしょう。また、保育・教育・共育の考え方には時代の流れというものも影響していることでしょう。「少子化」「核家族」などです。あるいは乳母車にのってゲーム機をいじっている1歳以下の子の登場なども私の世代では考えられないことです。
また、これはラプズレーという人の考え方ですが、「生命体」には「発達」(development)と「維持」(maintenance)と「参与」(participation)の三要素が必要であると言っています。「発達」「成長」を考える時には、それを維持、支えてあげること、待って、期待して、祈ってあげること、生活の中で、子どもたちがお手伝いなど「参与」を通して成長していくことを頭の隅に記憶しましょう。お友達と遊ぶことも「参与」ですね。
以上のことを踏まえて、「成長」「発達」の速度について考えてみます。幼い子にとっては「早生まれ」の子は小学生の高学年くらいまで影響があるでしょう。3月31日生まれの子と4月1日生まれの子では一年の開きがあるのですから成長のスピードに違いがあるのは当然です。また言語機能などは男女差もあるでしょう。兄弟姉妹、同居親族がいるかどうかも成長の速度の違いに影響しますね。そして何よりもその子が生れ持っている「個性」です。大切なことは、それぞれの子どもの成長・発達の速度は異なっていることを認め、受け入れることです。人間の知恵は「分別知」と言って他者と比べ、違いを知ることによって成り立ってもいるので、どうしても人と比べて自分の子どもを見て、発達が遅いとか早いとか考えてしまいます。しかし、実は、人は長い時間をかけて成長、成熟(他者と共に生きること)を身に着けていくのです。幼稚園時代に「保護者」や「他者」の目でお子さんたちを見て早急に判断しないことです。「助長」という言葉がありますが、早く稲が育つように毎日田んぼに行き、稲を早く成長させようとして「引っ張って」かえって枯らせてしまった中国の故事から由来するものです。このような愚かさから解放されましょう。保護者が肩から力を抜き、リラックスすると、子どもたちも楽になり、逆にのびのび成長するから不思議です。
万聖節(ハロウィン)
東福岡幼稚園理事
東福岡教会協力牧師
松見 俊
皆さんはハロウィンをどのように迎えますか? 我が住まいは早良区百道浜にあり、近くの福岡タワーはもう何週間も前からハロウィンのイルミネーションです。落ち葉が散り、かぼちゃや蝙蝠、魔女が箒にまたがり飛び降りてきます。ハロウィンということでデパートやモールなどに行くとカボチャにお菓子やアメの入ったものが売られています。ハロウィンとはどのようなお祝い日なのでしょう。
キリスト教の暦では11月1日は「万聖節」(All Saints Day)であり、亡くなったキリスト教の諸聖人を記念し、亡くなった家族のお墓参りをする習慣があります。ちなみに、プロテスタント(新教)では、10月31日にハロウィンと一緒に万聖節を祝います。現在バプテスト教会でもこの日に近い日曜日に召天者記念礼拝を行う教会もあります。
私がスイス、チューリッヒ郊外のリュシュリコン村にある神学校に留学していた時、収穫の季節になると、村では子どもの頭を少し小さくしたような大きな「蕪」を農家が提供し、その蕪をくりぬいてランタン(西洋提灯)にします。くりぬいた蕪はたぶん我が家だけしょうが、塩漬にして食べました。長男(当時小学2年生)、次男(当時幼稚園年長さん)は、このランタンをぶら下げて村を練り歩き、ゴールでは大きな焼いたソーセージを貰ったものです。このような収穫感謝が終わりと、次はケルテェンツィーエン(Kerzenziehen)になります。蝋燭(Kerze)の芯になる太糸を溶かした蝋の中に垂らし、十回くらい繰り返すとクリスマスに使う蝋燭(ケルツェン)ができるのです。キリスト教の歴史と季節がマッチした人間の営みです。
それが米国に渡ると米国の文化を反映して「蕪」より「かぼちゃ」のランタンになるようです。ではこの習慣がいつから仮装パーティーとなったのでしょうか?欧州では古代ケルト民族(ケルトの暦は11月1日から始まる)は新年を迎えるにあたり、まず10月31日に先祖の霊を迎えたらしいのです。日本のお盆のようなものです。それが森にすむ精霊、妖精たち、更に魔女? 魑魅魍魎(ちみもうりょう)との交歓となり、収穫感謝とお盆とお彼岸と正月が一遍に来たような祭りとなったようです。仮装をして日常の憂さを晴らし非日常、ケの中にハレを演出するようになりました。英語で「ハロウ」(hallow)とは「神聖なものとして崇めること」を意味し、私たちは「神のみ名がhallow」されるように、「み名をあがめさせ給え」と「主の祈り」で唱えています。お宅のお子さんたちも年長さんになると「主の祈り」を暗唱するようになるのでしょう。神様と農夫たち(そして保護者の皆さん)に感謝する気持ち、そして、亡くなられたひいお爺さん、お婆さん?のことを思いだす機会となると良いですね。
信じること、待つこと、祈ること
東福岡幼稚園理事
東福岡教会協力牧師
松見 俊
コロナウイルス感染のニュースが入り、あれやこれやで3年半が経ちます。この間、手探りで随分混迷したようにも思います。3年半と言えば、年少さんの保護者の方はほとんどこの辛い時期を過ごしてこられましたね。また、昨今では、ロシアのウクライナへの侵略戦争を契機にして食糧やエネルギーの自給率の低い我がクニの弱点がもろに前面に出てきています。多少便乗値上げもあるのかも知れませんが、諸物価の激しい上昇に直面し、保護者の方々はさぞ難儀をされていることでしょう。私自身はと言えば、激しい老化で、昨日できていたことが今日は出来にくくなったり、喪失体験の連続です。仕事から引退したこともあり、比較的自由な時間があるせいか、牧師という仕事をしてきたせいか、あるいは性格なのか、「あの人はどうしているか、あの子は大丈夫だろうか」と取り越し苦労に近い日々です。
そのような営みにおいて思うことは、信じることの大切さです。これは子育てにおいても「親育ち」においても言えることでしょう。幼稚園に入れば、自分の子どもは大丈夫だろうか?特に、他者との比較によって多少の自信も揺らぎます。あるいは、そんな不安を隠して意固地になったりします。でも、自分のこどもを信じること(明日の幾ばくかの成長に期待する)は保護者の特権でもあり、他人がどう言おうが、保護者だけはいつも子どもたちを信じてあげたいものです。
「信じる」ことは「待つこと」であると最近つくづく思います。信じて、待つことを選び取ったのがバプテストという群れです。プロテスタントの一つの流れを汲みますが、東福岡幼稚園は西南学院、小倉の西南女学院と同じバプテスト派の教会立幼稚園です。バプテストの特徴の一つは嬰児あるいは新生児洗礼をしないことです。その子が成長して自分の意思で信仰を持つまで、信じて、待つことを選び取ったと言えましょう。これって少し大変です。うっかりすると世の中の流れで(特に日本社会でクリスチャンは人口の1%にも満たない)、大きくなると、教会どころか神を信じることも拒絶する可能性も大きいでしょう。それでも、バプテストは、その子を信じ、待つことを選び取り、それに、「祈って」待つことを選び取っています。それは、人の背後に働く神への信頼に裏付けられているのです。それにある程度の「躾」の必要です。自分と人を傷つけないためです。
夏休みもそろそろ終わり、園での集団生活も始まります。お子さんも保護者の皆さんも少し緊張するでしょうか?お休み中に、良い生活習慣も退化してしまってはいないだろうか!大丈夫です。皆さんの愛する子どもたちですから。もし、少し心配で、心がざわざわしたら、背後に働いておられる愛の神の支えを信じましょう。大丈夫です。その確信の内実が、信じること、待つこと、祈ることなのでしょう。
互いに助け合うこと
東福岡幼稚園理事
東福岡教会協力牧師
松見 俊
東福岡幼稚園では、年長さん、年中さんが年少さんをお手伝いする場面があり、多少の役割分担も園児たちが相談して決めているのでしょう。運動会の巨大パズルやクリスマスのページェント(降誕劇)などその連携プレイは美事です。微笑ましいです。年上の園児たちはお手伝いにやり甲斐を見つけて生き生きとします。理事としてこのような姿を見ていると小規模幼稚園ならではと思います。一つの組が大人数で構成されていれば、他の組の後輩たちの面倒を見るなどということは難しいと思うからです。
しかし、そのような嬉しい、微笑ましい光景を見て想うことがあります。お兄さん、お姉さんが後輩の面倒を見ている、そのお姉さん、お兄さんの保護者たちは微笑ましいと考えるでしょう。しかし、いつも助けられる側の園児たちの保護者たちはどのように感じるのでしょうか?「助けてあげる子」と「助けてもらう子」が一方的に固定されてしまったら、保育上良くないことかも知れません。しかし、実は助ける子が後輩たちから助けられる場面、助けられる子が先輩を助ける場面もたくさんあります。その時には、保育者や保護者の方々は思い切り誉めて欲しいのです。お兄さんやお姉さんにしてもらった喜びが、次の年下の子どもたちを世話しようという意欲に繋がっていくのです。ご家庭においても「相互に」助け合うことが重要ではないでしょうか。兄弟姉妹がいない場合は保護者の方々がお手伝いで助けられた時には「ハグ」してあげましょう。
皆さんのお子さんたちは年齢的にもう大きくなってしまわれたかも知れませんが、私たちの子育ての場合は小児科医の松田道雄『育児の百科』が助けになりました。いろいろな育児書を読むと何が何だか分からなくなりますが、良い本であったと思います。松田道雄についてはいろいろな評価があるかと思います。私は育児の専門家ではないので、自信はありませんが、あくまでも私と私の妻の推薦本です。