「嫉妬」について
東福岡幼稚園理事
松見 俊
スイスのチューリッヒ郊外の神学院時代に、12月末(クリスマスと年始の間)に家族を呼び寄せました。さっそく二人の男の子をリュシュリコン村の公立小学校と幼稚園に入れました。アメリカンスクールに入れることもできたのでしょうが、お金がなく、また、折角だからと現地スイスの幼稚園と小学校に入れました。(チューリッヒの街中で出会ったヌスベルガー夫妻がスイス・ドイツ語を早速特訓してくれました。彼らはスイスと似た北海道の滝川に数年宣教師として奉仕され、チューリッヒで出会う日本人には手あたり次第声を掛けていたのでした。キリスト教信仰の国際的ネットワークです!)
数か月して小学校の保護者会がありました。土日はキリスト教(村の)の集会と礼拝があるので、平日でした。男性たちも参加しており、男女それぞれ仕事を休んで保護者会に出席しているようでした。
その時のテーマが「Eifersucht」でした。「嫉妬」「競争心」「猜疑」などと翻訳されます。担任の女性教員の話では、「小学1年生の私のクラスの子どもたちの家庭には、そろそろ妹や弟が誕生するかも知れない。(むろんそうではないケースもありますが)すると私のクラスの子どもたちは、母親あるいは父親あるいは近親の保護者の関心が生れたばかりの赤ちゃんに向けられ、「嫉妬」を覚えるかも知れないので、気を付けてあげて下さいね」というものでした。小学校の教師はそこまで考えるんだ!という強い印象を受けました。それ以来教会の献児式、新生児の祝福式の時には、当の赤ちゃんではなく、まず、お姉さん、お兄さんをハグしてから始めるようにしています。そして、「お兄ちゃん、お姉さんになって良かったね!」と言う言葉も禁物です。彼ら彼女らは、お兄ちゃんやお姉さんになったことを喜んでいる反面で、「私は私!ちゃんと名前で呼んで!」とも思っているようなのです。この時期、そして、皆さんのお子さんである幼稚園児の時期は、お友達を作り、ライヴァルと競争し、時には「嫉妬心」や「猜疑心」を持つのです。その葛藤をどのように乗り越えるか煩悶し、時に、赤ちゃん帰りをしたりします。E. エリクソンは、自我形成の7段階の初期において、① 信頼を学ぶ時期 世界全体としての保護者(母親)の大切さ、②自立とコントロ-ルが課題の時期 恥(排便の失敗)と疑いを越えて自立していくこと、弟・妹への「嫉妬」の問題、③イニシアティブと妥協を学ぶ時期 兄弟や遊び仲間との関係の構築の重要性、④健全な競争・達成感の確立の時期 傷付いたものへの配慮の必要性を挙げています。「嫉妬心」「猜疑心」「競争心」の葛藤という心の動きに対して、保護者はそっと見守ることが大切です。口が裂けても「嫉妬など怪しからん」などと言わないようにしましょう。「そうなんだ、寂しいねえ」と抱きしめてあげましょう。
旧約聖書の創世記4章には、「エデンの東」で起こった兄弟の葛藤の物語が登場します。アダムとエバの子どもカインとアベルの兄弟の物語です。結局、激しい競争心(比べ合うことによって)カイン(兄)がアベル(弟)を殺してしまいます。何と早々と創世記の4章の段階で聖書はこのような物語を描いているのです。しかし、神はカインを憐れみ、彼が復讐で殺されないように(アダムとエバ以外に復讐するような人たちはどこに居るのだという理屈はやめましょう)彼(の額)に「しるし」を付けたと言うのです。一説にはそれは十字架の形をしていたとも言われます。そうして、彼は「放浪者」となったのです。次に生れた三男「セト」がアブラハムに繋がる家系です。私は松見家の二番目の子ですが「長子」です。弟を殺し、放浪者として生きるカインが悲しくて、心にいつも引っ掛かっています。聖書は、人は人と比較し、比較されながら葛藤の中に生きていく、それが人間であることを赤裸々に描きます。