過去ログ
着実に、スモールステップで
東福岡幼稚園参与
福岡女学院大学人間関係学部子ども発達学科准教授
小栗 正裕
3月から4月へ。先日、幼稚園を卒園した子どもたちはいよいよ小学校へ。卒園の年ではない子どもたちも、進級を迎えます。幼稚園から小学校へ。今までのクラス(保育室)から、新しいクラス(保育室)へ。日常を過ごしていた環境が大きく変わる季節です。
この時期の小学校では20年ほど前から「小1プロブレム」と呼ばれる現象について語られるようになりました。小学校に入学した子どもたちが小学校の指導形態に適応できずに具体的には40分間の授業をイスに座っていることができない、静かに過ごしていることができないなどの状態を指しています。この問題が語られるようになった当初は、「子どもがしつけられていない」として、幼稚園や保育所、あるいは家庭の問題と考えられることも多かったのですが、近年では幼稚園・保育所と小学校の「段差」の問題であることが理解されるようになってきました。遊びを中心としてきた幼稚園・保育所での生活から、もしも4月になって急に座って授業を聞くことを求められるならば、それ自体に無理があるでしょう。
今日の小学校ではこの「段差」の解消に向けた取り組みがなされています。入学当初の時期は「スタートカリキュラム」として、授業時間の区切りを短くしたり、教科の枠をゆるやかにして遊びを取り入れながら学ぶなどをして、学校生活へのスムーズな導入が図られています。幼稚園・保育所でも年長クラスでは小学校での学習をイメージして(しかしもちろん、幼稚園・保育所のあり方から逸脱しない形で)活動が考えられるようになっています。
急激な環境の変化、子どもに求めるレベルをいきなり変えていくことは、子どもを戸惑わせることになります。少しずつ、子どものペースに寄り添いながらスモールステップで歩むことを大切に考えていくことが必要でしょう。
とはいえ、ある程度の環境の変化は子どもに「成長した」「お兄ちゃん・お姉ちゃんになった」という実感を得させるものでもあります。完全にフラットにしてしまうのではなく、(乗り越えられる)適度なチャレンジやステップも必要です。そうした意味でも、スモールステップが大切なのです。
さて、私は本年3月をもちまして、任期満了により東福岡幼稚園理事および理事長を退任となります。4月からは新たに、参与として引き続き本園にかかわってまいります。本コラムにつきましても、引き続き機会を見つけて執筆させて頂ければと考えております。
今後とも、どうぞ、よろしくお願い致します。
「学ぶことは楽しいこと」が根本
東福岡幼稚園 理事長
福岡女学院大学人間関係学部子ども発達学科 准教授
小栗 正裕
年長・ひかり組の園児たちは、卒園を迎えます。幼稚園を卒園して、小学校に入学します。「学校生活」の始まりです(実は、幼稚園も「学校」のひとつではあるのですが)。
小学校に入学すると、何が変わるでしょうか。大きなランドセルにたくさん詰められる教科書、「国語」「算数」などと書かれた時間割表…。鉛筆や消しゴム、ノートなどの「学用品」もランドセルに入れて持って行く。
学校で取り組むことを、私たちはしばしば「勉強」と呼ぶことがあります。教科書に書かれたことを理解し、そこに示された課題に取り組むことを、「勉強」と呼ぶことが多いでしょう。
私は個人的にはこの「勉強」という言葉はあまり好きではありません。「勉強」とは「強」いて「勉」めるの字を書き、「無理をする」「苦労する」という意味が含まれています。「勉強しまっせ、引っ越しの…」のテレビCMを知る方も少なくなられたようですが、私が大学院生時代を過ごした関西では、お店の人はよく「勉強しまっせ」と言って、「無理」をして(?)値引きをしてくれていたものでした。もちろん、子どもにとっても「努力」することが大切だとは言えるでしょう。しかし、学校で学ぶことは「無理」「苦労」といった「苦行」でありさえすれば良いというものではありません。
本園の園児たちは、きっと幼稚園で取り組むことを「勉強」だとは思っていないことでしょう。幼稚園の教育は「遊び」を中心とすることがその特性とされているからであり、保育の中で何かに取り組む時には、子どもたち自身が「おもしろそう」「やってみたい」と思えるような動機付けをすることを大切にするからです。子ども自身が「楽しい」と思えるから、それは「遊び」となります。子ども自身が興味を持ったことに没頭するのですから、それが「勉強」であるはずがありません。しかし、それを通して子どもたちは工夫することや身のまわりのさまざまな物事、友だちとの関わりなど、多くの「学び」を受け取ります。もちろん、幼稚園の教師たちはそれらの「遊び」から何を「学ぶ」かということを見通した上で計画的に保育をするのですが…。
小学校に入れば教科書も時間割もありますが、本来、この「学び」の本質は変わらないと言っても良いでしょう。小学校に入って始まる最初に始まる教科のひとつに「生活(科)」があります。この教科は1989(平成元)年の小学校学習指導要領改訂で生まれた比較的新しい教科ですが、それ以前は、今日では3年生から始まる「理科」「社会」が1年生から学ばれていました。1,2年生の「理科」「社会」を廃止して「生活(科)」が新しく生まれた背景には、身のまわりのさまざまな物事を「自然のもの」「社会のもの」を区別してとらえるのではなく、子どもたち自身がさまざまに興味・関心を持ちつつ、教師による説明ではなく具体的な体験を通して学ぶことが適切であると考えられたことがありました。小学校ではそれを「遊び」と呼ぶことはやや少なくなりますが、子ども自身が「おもしろそう」と思ったことに、自ら取り組むことを通して「学ぶ」という考え方は、小学校でも引き続き大切にされているのです。
「学ぶ」ことは、「知る」こと、「良くなる」こと、「できるようになる」ことですが、そのことによって「うれしい」と思うことは、さらに「知りたい」「良くなりたい」「できるようになりたい」と思う動機付けであり、「学び」のサイクルを生むでしょう。「学ぶことは楽しいこと」です。その最初のきっかけは、「おもしろうそう」「やってみたい」と思う気持ちです。幼稚園で大切にしてきたこの気持ちを、卒園して小学校へ入学していく、ひかり組の子どもたちには、これからも大切にし続けてほしいと思っています。
複眼的な見方で人を見ること
東福岡幼稚園理事
松見 俊
皆さんは、お子さんたちがどのような子になるようにイメージしていますか。米国の神学校で覚えた英語に holistic(wholistic) という言葉があります。キリスト教教育学で良く用いられていました。人を総合的、全人的に理解し、共に生きようということです。医療では「全人医療」などという言葉もあるようです。創世記1章26-27節によると、人は「神のかたち、神の似姿」に創造されたと言います。いろいろな解釈がありますが、「神のかたち」とは人間に本来備わった実体というより、語りかけに対して応答し、他者との関係に生きる「人格」について書かれているという解釈が現在では主流です。人はこの世(被造世界)における他者との関係において、自分自身との関係において(自己受容の課題です)、そして神との関係に生きるように造られています。これが総合的、全人的理解です。対他関連が旨くいかないと他者を欲望の対象として「もの化」し、また「もの化」される、いわゆる「疎外」が生じます。対自関係が旨く行かないと「自分が好きでない」「自己肯定」「自己受容」のしにくい人になります。対神関係では偶像礼拝者となり拝金主義から健康神話などこれは様々です。人は真の神を信じるように造られているので、何か他の神々に隷属してしまうのです。
創世記2章7節はこの人間理解よりも古いもので牧歌的です。人(アダム)は土(アダマ)から造られ、その鼻にいのちの息を吹き入れられて「生きた魂」となったとあります。男女(LGBTの方を含めて)は人として「アダム」であり、土から造られている。ここには身体と魂の分離はなく、一体であるという全人的人間観が見られます。
キリスト教徒ではないギリシヤ人には、人は肉体という牢獄に閉じ込められた魂であるという理解があり、一方で体育が重要視されはしましたが、他方、魂には永遠性が宿ると考えたようです。そして、魂(生の原動力)は知・情・意の3つの要素からなっていると考え、知育、情操教育、意志の訓練(躾)を目指したのです。しかし、このバランスは難しいです。夏目漱石は『草枕』の冒頭で、「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。」と言っています。
皆さんは、お子さんたちがどのような人になることを希望していますか。成績が良く、知的に優れた人ですか? あるいは情感豊かな人ですか? あるいは情欲の誘い(wish, desire)に抗って「意志」(will)を通せる人でしょうか。そのバランスを取るというのが全人的人間像ですが、それらにまたコミュニケーションの上手さ(「社会性」)など欲張った希望もあるでしょう。
ここでその子に合った教育について考えてみましょう。スイスの小学校の確か1年生の子どもです。教師の判断で「留年」が決まりました。私は、保護者の反応を伺っていました。「辛いかな?!」。するとその子のお母さんは、にこにこして「ありがとうございます。税金を使ってもう一年この子に合った教育をしてくれるとは!」と言われたのです。自分のメンツや社会通念ではなく、子どもの人格を大切にする姿勢です。その子の成長の時に合わせるのです。
私自身はかなりの悪ガキのいたずら小僧でした。知情意のバランスで言えば多少、知(悪知恵?)に長けていてバランスという考えは好きではありません。ロボットのような完全なバランス人間には面白みがありません。スイスには何と「イタズラして良い一日」という日があり、その日は子どもたちは爆竹を鳴らしたり、悪ふざけの限りです。ある子が鉄道駅の自販機だったか券売機でしたか、コインを入れる処にチューインガムを貼り付けていました。「コラ、これは少しやりすぎ!」と叱ったものです。大人(外国人の)と子ども(スイスの)の対話です。全人的とはバランスが取れていて良い、家庭的にも、社会的にも「扱い易い人」になるということではなく、人間は、身体的、精神的、知的、心理学的、社会的、経済的、その他、多様で、複眼的な視野で相互に向き合いながら、その人に合った仕方で生きられるように少し支援してあげることなのでしょう。
宗教教育の重要性と政教分離原則
東福岡幼稚園理事
松見 俊
安倍晋三元首相の暗殺事件の犯人とされる男性の話から旧「統一協会」(私はこのカルト集団を「教会」と認めていないので、この団体が本来呼ばれていた「協会」と称する)と政治家との深い関係が問題となり、カルトとは何か、宗教とは何かが問われている。「宗教」一般へのバッシング(度を越した非難)も懸念されている。公明党、創価学会が慌てているという。
このような一連の報道の一部によると、統一協会の集金の90%以上が日本人からのものであり、世界で、日本人ほど騙されやすい人々はおらず、この「騙され易さ」は本来の「宗教」の基盤がない、あるいは脆弱であるからではないかと言われている。家族などに何か不幸があると祟りがあると言われると心が揺らぐらしい。嫌なことなど日常茶飯事なのに!ここでは「カルトとは何か」を詳論はしないが、宗教教育の重要性と政教分離原則について考えてみたい。
政教分離原則とは17世紀、我がバプテストが英国で唱え、米国で「憲法」に明文化されたもので、政治・政府と宗教制度の分離のことである。「日本国憲法」はその最先端を行き、憲法第20条に明文化されている。政治が宗教に過度に関わると政治による宗教利用(日本社会では戦前・戦中の天皇制「国家神道」であったが)が生じて、政治的批判が困難になり、政府が暴走し、逆に、ある宗教が政治的に優遇されると信仰そのものが歪められるからである。そこで、米国では公立学校で、一切の宗教活動を禁じている。例えば、公教育においてキリスト教教育をすれば、モスリムや他の宗教を持つ者、あるいは無宗教の子どもたちに圧力となるからである。このような政教分離原則は、宗教教育は家庭で、あるいは/そして、教会やモスク、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)などで行われることが前提とされている。米国は極めて宗教的な社会であった。しかし、「世俗主義」が進んで、教会やシナゴーグでの教育、また、家庭での宗教教育がなされないと子どもたちの精神に「空白」が生じてしまう。ここに問題が生じる。価値の基準の喪失の危機である。昨今の大問題である。皆さんはIBMという米国系の企業をご存知だろう。この企業の日本法人に勤める方の息子さんが、私が牧師をしていた、千葉県松戸市にある教会の教会学校(日曜学校)に来るようになった。するとお父さんも来られた。IBMの上司が、息子さんが通っている教会に出席して、息子さんがどのような宗教教育を提供されているか保護者として一緒に勉強しなさいと勧めてくれたとか。流石IBMである。
他方、欧州では政教一致である。そこでの工夫について述べておこう。私の息子たちの小学校では「宗教の時間」が一週間に一コマある。ローマ・カトリックが良いと言えば、その時間はリュシュリコン村のカトリックの司祭さんが来てくれる。プロテスタントの家族の子どもであれば、村の改革派(カルバン系)の牧師さんがクラスを持つ。我が家はプロテスタントをもっとプロテストする(抗議・改革する)「バプテスト」なので、わが家の子どもたちはこの時間帯は遊んでいて、日曜日には日曜学校に通っていた。
私がここで言いたいのは欧米の文化・宗教事情ではない。言いたいことは「宗教教育」がなされないのはあり得ないことであり、それはアジアやアフリカ諸国でも同じである。ある宗教を持たないことは、極端に言えば、「人間」とみなされない。人生の土台になる価値基準の無い人とは付き合えないからである。
最後に定義をひと言。「宗教教育」には仏教教育、ヒンズー教教育、モスリム教育、そして、キリスト教教育などがある。一番広い概念である。「キリスト教教育」には「場」によって「キリスト教家庭教育」、「教会教育」、「キリスト教学校教育」などがある。「教会教育」には「教会学校」、教会での研修・修養会などがある。
「主を恐れることは知識のはじめである。」(口語訳 箴言1:7a)はじまり、つまり、土台のない知識の集積は常にうつろい、高慢になり、あるいは、自己受容不全になり、暴走する。
「嫉妬」について
東福岡幼稚園理事
松見 俊
スイスのチューリッヒ郊外の神学院時代に、12月末(クリスマスと年始の間)に家族を呼び寄せました。さっそく二人の男の子をリュシュリコン村の公立小学校と幼稚園に入れました。アメリカンスクールに入れることもできたのでしょうが、お金がなく、また、折角だからと現地スイスの幼稚園と小学校に入れました。(チューリッヒの街中で出会ったヌスベルガー夫妻がスイス・ドイツ語を早速特訓してくれました。彼らはスイスと似た北海道の滝川に数年宣教師として奉仕され、チューリッヒで出会う日本人には手あたり次第声を掛けていたのでした。キリスト教信仰の国際的ネットワークです!)
数か月して小学校の保護者会がありました。土日はキリスト教(村の)の集会と礼拝があるので、平日でした。男性たちも参加しており、男女それぞれ仕事を休んで保護者会に出席しているようでした。
その時のテーマが「Eifersucht」でした。「嫉妬」「競争心」「猜疑」などと翻訳されます。担任の女性教員の話では、「小学1年生の私のクラスの子どもたちの家庭には、そろそろ妹や弟が誕生するかも知れない。(むろんそうではないケースもありますが)すると私のクラスの子どもたちは、母親あるいは父親あるいは近親の保護者の関心が生れたばかりの赤ちゃんに向けられ、「嫉妬」を覚えるかも知れないので、気を付けてあげて下さいね」というものでした。小学校の教師はそこまで考えるんだ!という強い印象を受けました。それ以来教会の献児式、新生児の祝福式の時には、当の赤ちゃんではなく、まず、お姉さん、お兄さんをハグしてから始めるようにしています。そして、「お兄ちゃん、お姉さんになって良かったね!」と言う言葉も禁物です。彼ら彼女らは、お兄ちゃんやお姉さんになったことを喜んでいる反面で、「私は私!ちゃんと名前で呼んで!」とも思っているようなのです。この時期、そして、皆さんのお子さんである幼稚園児の時期は、お友達を作り、ライヴァルと競争し、時には「嫉妬心」や「猜疑心」を持つのです。その葛藤をどのように乗り越えるか煩悶し、時に、赤ちゃん帰りをしたりします。E. エリクソンは、自我形成の7段階の初期において、① 信頼を学ぶ時期 世界全体としての保護者(母親)の大切さ、②自立とコントロ-ルが課題の時期 恥(排便の失敗)と疑いを越えて自立していくこと、弟・妹への「嫉妬」の問題、③イニシアティブと妥協を学ぶ時期 兄弟や遊び仲間との関係の構築の重要性、④健全な競争・達成感の確立の時期 傷付いたものへの配慮の必要性を挙げています。「嫉妬心」「猜疑心」「競争心」の葛藤という心の動きに対して、保護者はそっと見守ることが大切です。口が裂けても「嫉妬など怪しからん」などと言わないようにしましょう。「そうなんだ、寂しいねえ」と抱きしめてあげましょう。
旧約聖書の創世記4章には、「エデンの東」で起こった兄弟の葛藤の物語が登場します。アダムとエバの子どもカインとアベルの兄弟の物語です。結局、激しい競争心(比べ合うことによって)カイン(兄)がアベル(弟)を殺してしまいます。何と早々と創世記の4章の段階で聖書はこのような物語を描いているのです。しかし、神はカインを憐れみ、彼が復讐で殺されないように(アダムとエバ以外に復讐するような人たちはどこに居るのだという理屈はやめましょう)彼(の額)に「しるし」を付けたと言うのです。一説にはそれは十字架の形をしていたとも言われます。そうして、彼は「放浪者」となったのです。次に生れた三男「セト」がアブラハムに繋がる家系です。私は松見家の二番目の子ですが「長子」です。弟を殺し、放浪者として生きるカインが悲しくて、心にいつも引っ掛かっています。聖書は、人は人と比較し、比較されながら葛藤の中に生きていく、それが人間であることを赤裸々に描きます。






